莫大な財産
予章王蕭綜の生涯5
あるとき、予章王蕭綜は蕭宝寅という人物が北魏にいることを知りました。蕭宝寅(しょうほういん、486〜530)は斉の明帝の第6皇子で、あの廃帝蕭宝巻の同母弟です。彼は501年に兄蕭宝巻が蕭衍(後の梁の武帝)に殺されると、北魏に亡命しました。彼は北魏の皇室に丁重に迎えられ、孝文帝元宏の皇女南陽公主と結婚して斉王に封じられていました。蕭綜はこの蕭宝寅を「叔父上」と呼んで密かに連絡を取り合い、北魏への投降を約束してしまいました。
やがて、蕭綜がそれを実行する機会が訪れました。普通6年(525年)梁の武帝が北伐を行いました。24歳になっていた蕭綜もこの北伐軍に参加し、彭城(現在の江蘇省徐州市)を守っていました。しかし彼はこともあろうに同年6月、その任務を放棄して夜陰に紛れて数騎のみ率いて北魏の将軍・元延明のもとに投降したため、梁軍は壊滅的な被害を受けて撤退せざるを得なくなりました。
北魏に迎えられた蕭綜は父武帝との絶縁を宣言して廃帝蕭宝巻の遺腹子(父の死後生まれた子供)と自称し、斉の元皇族として生活することになりました。彼は名を賛、字を徳文と改めました。武帝の子供たちはみな糸編漢字の名と「世」で始まる字を持っていましたが、彼は改名することによって梁との絶縁を宣言したのです。彼は司空・高平郡公・旦陽王に封じられ、皇族の一員として北魏から莫大な財産と奴婢を受け取りました。そして公然と廃帝蕭宝巻の喪に服したのです。これを知った梁の武帝は、蕭綜がこれまで梁において享受してきた皇族としての身分と特権を剥奪し、蕭綜が梁に残していた息子蕭直の姓を「悖」(「背く」「筋道に合わない」という意味)に改めて皇族身分から追放するなど、我が子の裏切り行為に対する怒りを露わにしました。もっとも武帝はまだ蕭綜に対する情は残っていたらしく、十日もたたないうちに蕭綜の身分を回復し、彼が梁に残した妻子の生活も保障しています。
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